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青年期の故郷 山形を訪問(4月30日)
南陽市宮内町 米沢市街を歩く

① 東置賜郡の招魂碑(中央)
=24/04/30、南陽市宮内町・双松公園
② 招魂碑に刻まれた「竹田良太」名(指先)
=2024/04/30、南陽市宮内町・双松公園
 
③ 座頭稲荷の右側が最初に疎開した家の跡地
=2024/04/30、米沢市中央町(旧座頭町)
 
④ 弟が生まれた場所(上部)と堀立川の石敷堰
=2024/04/30
、米沢市中央・堀立川中央橋上流
⑤ 上杉神社の参道に並ぶ露店(手前十字路左が元米沢工業高校の正面入口)
=2024/04/30、米沢市丸の内
   
⑥ 懸工発祥之地碑と筆者
=2024/04/30、米沢市丸の内・伝国の杜
 
 
寺町の寺院案内板
=24/04/30、米沢市大町・東寺町上通
 
 ● 早朝、米沢駅近くの常信庵に行き、20歳代のとき、私が働いていた川崎市の日本鋼管水江製鉄所で、同僚だった親友の墓に花を手向けました。その寺は、源義経が奥州藤原氏へ向かうときに立ち寄ったと言われ、碑や関連のお堂があります。
 米沢駅に戻り、赤湯駅で乗り換えるフラワー長井線の南陽市宮内町へ向かいました。目的は宮内町にある招魂碑に父の名前が有るか・無いかの確認です。13年前にも行きましたが、場所を探すのに時間がかかり、分かった時は夕暮れで、未確認に終わっていたからです。
 今回は、南陽市役所や旧宮内町役場(現宮内公民館)にも電話で問い合わせ、時間も余裕の取り組みにしました。宮内駅から歩き出し(9時10分)、招魂碑がある双松公園に着くと、高台上部の前方が開けた良い場所にありました(写真①)。
 ● 戦没者名を刻んだ銅板は、碑の背面に填めてあります。下段から、1人1人丹念に見ていきますと。下から5段目で、右から18番目に父「竹田良太」の名がありました(写真②)。涙ぐみ、安堵しました。もし上段にあれば、梯子がないので見つからなかったでしょう。碑は、日露戦争から昭和の終戦迄に戦没した東置賜郡出身者名を刻んであるようです(推測)。1段当たり120人で28段あり、余白を除くと約3千人と計算しました。どこかに名簿一覧があるはずです。地域の遺族会も高齢化で解散や統合され、自治体も平成の合併で詳細を知るのは難しいです。それにしても、日本が起こした侵略戦争の被害と加害の歴史を忘れてはなりません。尚、現存の碑は1956年に再建したものです。それは、母と姉が落成式に出た写真を姉の次女から昨年貰ったからです。元の場所と同じかどうかも、知りたいところです。
 ● 正午過ぎ米沢駅に戻り、思い出の場所巡りです。
 まず、松川(最上川)に架かる松川橋を渡り、座頭町(現中央町)の最初に疎開した母(5女)の姉(3女)宅跡へ向かいました。その橋は、座頭町と駅間を歩いた近道で65年ぶりです。橋は架け替えられ、その先の道も車道化され、渡って下流方向に右折する道が分からず、真っ直ぐ進み旧名の鍛治町、立町の方から座頭町へ入ってしまいました。おかげで、欲しかった草刈り鎌を買い、岩倉饅頭を食べ、米沢の銘菓「時雨の松」を土産に買うことができました。座頭町に着くと、目印の三友堂病院は解体中でびっくりしました。その先の右側が疎開した所です。隣の座頭稲荷(稲荷大明神)は、昔のままでした(写真③)。疎開した家は、和菓子屋(清風堂)を営んでいました。今は、大分前に廃業転居し、惣菜屋と裏側に2戸建っていました。
 ● 座頭町通りは陸路の要所で、長井の宮船場と繋ぐ長井街道や、糠野目の船着場と繋ぐ奥州街道の分岐点でした。今も、裏側方面に国道121号線と高畠町を繋ぐバイパスができ、要所は変わらないようです。
 疎開の話しです。私たち母と子の4人が東京から疎開したのは1944年の夏前だと思います。父が1月に出兵し、東京空襲を逃れるよう、東京に住む母の長姉がすすめたからです。その後、長姉の家族も清風堂に疎開してきました。3家族で10人以上になったと思います。
 疎開した7月、父が戦死し、8月に弟(第4子)が生まれました。葬儀の記憶はありませんが、弟の誕生は覚えています。生まれた場所は、座頭町外れの堀立川中央橋の上流の堤防の上にあった家です(写真④)。産屋に借りたのでしょう。今は別な家でした。
 ついでに、関心があった堀立川(人工川)の流れを調整する石敷堰をじっくり見ました。
 ● 清風堂跡に戻り、高校2、3年生の冬場に再度お世話になった清風堂(下宿)から、米沢工業高校(米工)までの通学路を歩きました。記憶に残る景色はなく、表町通りの米沢東高校も建て替えられていました。冬道だったから記憶と合致する景観が違うのかも知れません。
 上杉神社(米沢城跡)内に入り、正門(米沢駅方向)の橋を出ると、露天商が両脇に並び賑やかでした(写真⑤)。米沢上杉まつり(4月29日から5月3日)が始まっていたのです。この時期の祭りのことはすっかり忘れていましたが、米工の正門は橋を出た参道の右側で、祭りの期間は休校でした。当時は、正門の入り口を除けて植木の露天商が並んでいましたが、今は洋風の食べもの売りに変わり、時勢の変化を感じました。米工の位置は、内堀と外堀の間の三の丸跡です。今は郊外に移転されて「伝国の杜」となり、跡地に置賜文化ホールや上杉博物館が建ち、一部が広場になっていました。
 ● 米工は、旧名に山形工業学校の名の時期があり、通称「懸工」と呼ばれていました。伝国の杜に発祥之碑があります(写真⑥)。1897年(明30年)の開校で、全国で6番目の工業高校と言われます。私は1956年(昭31年)に電気科に入学し、59年に卒業しました。
 2年の夏、部活の卓球の県大会が鶴岡市であり、宿泊費など自己負担のお金が無く、参加できませんでした。1年のときは、山形市の日帰りで自己負担がありませんでした。一生懸命練習したのに目標を失い、打ち明ける人もあらず、グレる選択肢だけでした。3年のとき、私を含む同科生数人が万引きで、自宅謹慎1週間の処罰を受けました。貧乏に対する反抗が強く、何とも思わなかったと記憶します。卒業でき、学校の配慮に感謝です。
 母校跡を後に、1年のときの通学路を米沢駅へ向かって歩きました。九里学園高校を通り、東寺町上通から相生橋を渡りました。橋先の左側が、今朝の常信庵です。
 ● 2、3年のときの通学は、上和田から米工間約13㎞を自転車でした。そのときも、松川橋を渡っていました。その自転車道も、今回歩く計画でしたが、時間が足りずだめでした。今思うと、雨の日も・風の日も苦にせず通学したことが不思議です。帰路の和田村は上り坂でした。冬は、先ほどの清風堂にお世話になり通学しました。
 米沢や他を歩いて気づくことは、神社仏閣の多いことです。そこを通るたび視界にあったはずですが、記憶にほとんどありません。これをしっかり覚えていれば、役だったはずだと悔やみました。
 東寺町上通の案内板には17寺も並んであり、宗派や本尊、見どころを書いてありました。通学の記憶をたどっても、漠然とした景色しか浮かびません(写真⑦)。
 旅は、夕刻に米沢駅へ戻って終わり、達成感を味わいました。84歳を迎える今がチャンスと決断、踏破できて満足です。
 ● 私の青年期は、母にとっても大きな試練だったと思います。夫の出兵、疎開、夫の葬式、出産、貧困、子との別れ等々、休みのない苦難の日々だったと思います。母は、一家心中をしようと何度も思ったそうです。だが「1人でも生き残る子がいたら苦労するだろう」と、生きる道しかなかったことを手記に書いています。母は晩年まで病気せず、今日の私の存在に感謝・感謝です。 
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